ソーシャルアクション

私は大部分の障害者が嫌いだ。精神障害者だろうと肉体障害者だろうと。しかも割りと健常者に近い障害者だ。
なぜこんな話をしたのかと言うとTVを録画しようと思い、古いビデオに上書きしようとしてビデオテープの中身を確認していたらこんなVTRが出てきた。
何かの討論番組だ。自殺は良い事か悪い事かという有触れた話題の討論だ。そこで「自殺は自分がしたければしてもいい。周りの整理をしたら」等と言う若者が主張していたのだ。そこに脳性マヒでほとんどの筋肉が動かなくなった少年(15)が出てきて「私は人の手を借りないと自殺することもできません。自分だけではどうしようもできません。生き地獄です。でも私はあと何年かしたら確実に死ぬ。私が生きれない分、皆には生きて欲しい。」とコメントしたのだ。シーンとする会場。そこでビデオテープは終わっていたので最後はどうなったか知らないが、この少年は卑怯だ。自らを売り同情を乞うている。感情乞食だ。私がその場にいたら言ってやるだろう。「貴様は生き地獄だと行っていた。私はお前を殺し、死より辛い罰を受けてやる」と。その少年の老い先は知れていても殺してあげたかった。これも一種の同情かもしれない。
乙武も一種の確信犯だ。自分の障害は個性だといい、人とは違うと言い張る。それしか武器が無かったのだろう。現在はスポーツライターをしているらしいが、そこには障害が持ち込めない。つまり武器を失っているのだ。自分の名誉を上げるために障害を曝け出し己の社会的地位の向上を図っている。そして社会に啓蒙をし、また己の住める場所を公共的に作らせるように暗黙にサポートさせる。社会的乞食。それが乙武なのだろう。
ホーキング青山も似たことしかしていない。障害者芸人と己で名乗っておきながらネタ等で笑わしてくれないのだ。真面目に議論する。芸人の意味が無い。
どこかの知恵遅れは下手な絵を書き芸術家を気取っている。
今、挙げたのは自分を売り同情に似た何かを乞い、それで生活しているのである。昔の見世物小屋のようだ。ただ、違うのが我々が笑うに笑えないのだ。笑えば社会的に何かしら言われるだろう。
感情乞食は同情しか乞いてないのだ。笑いや怒りなども乞うて欲しい物だ。
私が前に住んでいた所では変わった障害者がいた。電動車椅子に乗っているのだが、すれ違い様に「あんちゃん。俺はみての通りだ。ちょっと荷物持て。」と偉そうにいってくるのである。そして荷物を持ってあげると「買い物付き合えや。」と買い物にまでつき合わせ「あの棚の一番上とってや」等と言うのだ。この図々しさ。先ほど挙げた他の人は図々しい。だがそれを暗にほのめかしている。この人は隠さない。「俺は障害を持っているから特別な扱いをうけるのは当たり前だ」という姿勢が見える。そう乞食には堂々としていて欲しいのだ。己に誇りを持ち、「同情してください!」と声高らかに言う障害者が私は好きである。同情をして欲しくない障害者はメディアに出るなと言いたい。










乞食も三日すれば忘れられぬ

乞食は気楽なもので、三日もやるとその味が忘れられなくなる。悪習は染まりやすく、改め
るのは困難であることのたとえ。