殺人願望者の自己正当化

韓国では犬を食べるのは常識だ。日本にも犬料理を出してくれるお店がある。その犬は食用犬であり、生まれた時から食肉にされるという運命の本にあるあるのだ。その犬は余程の事がない限り食肉として一生を終えるだろう。その点、われわれ人間は食用にされる運命を持って生きるなどという概念などない。我々は犬から比べれば、かなりの自由である。
また韓国では猫も食べると言う。犬料理は有名だが猫料理はあまり聞いたことがない。韓国では犬の肉より猫の肉の方が安価らしい。水木しげるの本で呼んだ情報なので真偽は定かではないが、昔の日本では三味線にするために皮を剥いだ猫を食べていたらしい。淡白でいて河豚のようであり、「岡河豚」と呼ばれていたほど美味しいそうだ。それに比べ、人肉は硬く筋張っていて美味しくないらしい。韓国の隣国、中国ではいろんな食文化がある。例えば蛙、蛇、海星や猿まで食べるらしい。これは立派な文化である。
中国にはこんな法律があったらしい。

・浅く埋めることを禁じる、3フィートの深さに埋め、その上に穀物を植える
・道路の近くに埋めることを禁じる
・泣き叫ぶことを禁じる
・喪服着用を禁じる

これは中国の土葬の仕方の法律である。死体が埋められたのを知り、それを掘り出し食肉として売る輩がいたのだ。中国では人肉まで食す文化があったのだ。しかし日本も寛永の大飢饉の際には当時の食文化にはない牛や馬、そして死んだ人間をも食べていたと言う記述が残っている。つまり、人肉とは食べられないほどではないのだ。どこかの国の先住民は人を殺して食べることによりその人間の力が得られると信じ、近年まで食人をしていたらしい。ここまでくると立派な文化である。
今、日本で自殺サイトで知り合った人間を己の快楽のために殺した人間が話題になっている。だが、自殺志願者を殺すのは本当に悪い事なのだろうか?今だから告白するが私はかつて「自殺志願者と殺人願望者」をいうスレを2ちゃんねるメンタルヘルス板に立て、自殺志願者を殺し、その肉を食そうと企てた事がある。だがスレは削除され計画のままで終わったのだが。そう、私は一般的にいう「カニバリスト」なのである。人を食す事は今となっては「禁忌」であり、それを行った物には社会からの排撃が待っている、私はそれでも「禁忌」に触れたいと思っている。食人は兎も角とし私は自殺志願者を殺す事はいい事なのではないかと思っている。私はかつて自殺志願者であった。社会を悲観し交友関係に畏怖を覚え精神的にも恵まれていなかった。そしてオーバードズやリストカットを繰り返していた。まさに生き地獄であった。もし、あの生き地獄を楽にしてくれる人がいたら、とても感謝したであろう。だが、今回の事件は苦しめて殺したので些か悪感を感じるが。もし事前の交渉の基に、決められた通りに楽に殺すのであればそれはいい事なのではないだろうか?私にとってそれは犯罪者ではない。立派なヒーローである。その見返りとして食人をさせてもらうのは、構わないのではと思えてくる。それがもし、社会の中で成り立てばそれは立派な文化である。

私が何をいいたいのかと言うと、自己の中で確立し、己の善悪の判断と共に仲間に認めてもらうことが「文化」なのではないかと思うのだ。欧米の自然保護団体が鯨を食べるのは野蛮だという。もっととち狂った団体になると牛を食べるのも野蛮だという。これは明らかな自己の「文化」の差である。だが人殺しは本当に悪い事だと誰もが思う。だが、私は違う。
ケースバイケースで人を殺すことは善い事だと思っている。そして食人も文化の一つだと思うのだ。
日本社会では犬を食べるのは”常識”ではない。だが韓国では”常識”であるのだ。そしてどこかの国の先住民は人を食べる事が”常識”なのである。
私は文化を吸収、新提する事で日本社会が一歩前進すると思っている。